LOGIN「お姉ちゃん……ごめんね」
莉奈の声を聞いた瞬間、美緒は返事ができなかった。
謝罪の言葉は耳に届いているのに、その意味だけがうまく頭の中へ入ってこない。視界の端では亮介が何か言おうとしているのが分かったが、美緒の意識は莉奈の左手に吸い寄せられていた。
細い薬指に光る指輪。
大粒すぎず、けれど明らかに安物ではないダイヤモンド。その石を囲むように、小さな宝石がいくつも留められている。
美緒はジュエリーに詳しくない。それでも、その指輪が「たまたま買ったもの」ではないことくらいは分かった。
「その指輪、どうしたの?」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
莉奈は一度、亮介を見た。助けを求めるような目だった。
亮介は顔をしかめる。
「美緒、ここでは――」
「亮介には聞いてない」
美緒が遮ると、亮介の口が止まった。
五年付き合ってきて、彼の言葉を途中で遮ったことなど、ほとんどなかった。それが今になって初めてできたことに、美緒自身が少し驚いていた。
莉奈は左手を胸元まで持ち上げたまま、困ったように指輪へ触れた。
「これは……亮介さんにもらったの」
「いつ?」
「お姉ちゃん」
「いつもらったの?」
責めたいわけではなかった。
少なくとも、美緒はそのつもりだった。
ただ、一つずつ確かめないと何も信じられない。さっきまで婚約を発表されると思っていた自分と、今ここにいる自分が同じ人間だとは思えないほど、状況が急激に変わりすぎていた。
莉奈は俯いた。
「一週間くらい前」
「一週間前……」
美緒は小さく繰り返した。
一週間前。
その日、美緒は亮介の母親から電話を受けていた。
『新居のキッチンは広い方がいいでしょう? 亮介は料理なんてしないんだから、美緒さんが使いやすいものを選びなさいね』
笑いながらそう言われ、美緒も笑った。
亮介は料理をしないけれど、朝食だけは和食が好きだとか、仕事が忙しくなると食事を抜くから、冷凍しておける作り置きが便利だとか、そんな話までした。
あの電話をしていた時には、もう莉奈の指にこの指輪があったのか。
「一週間前に指輪を渡したのに、今日まで私には何も言わなかったの?」
「俺もタイミングを見てたんだよ」
亮介が口を挟んだ。
美緒はそちらを向く。
「今日、婚約を発表する予定だったんでしょう?」
「……そうだ」
「私との?」
亮介は黙った。
美緒はその沈黙に答えを聞いた。
「莉奈との、だよね」
それでも確認すると、亮介は観念したように答えた。
「ああ」
胸の奥で、何かがじわじわと冷えていった。
「じゃあ、私には今日まで何をするつもりだったの?」
「何って」
「私は今日、あなたに呼ばれてここへ来た。婚約についてきちんと話すって言われたから。あなたのお父様も知っているって言ったよね。私は当然、私との結婚のことだと思ってた。でもあなたは一週間前に莉奈に指輪を渡して、今日、莉奈との婚約を発表するつもりだった。だったら私は何のために呼ばれたの?」
「だから、発表の前に話をしておこうと思ったんだ」
亮介の答えを聞いた途端、美緒はあまりにも呆れて、怒るより先に笑いそうになった。
「それ、本気で言ってる?」
「何が」
「私が何も知らないまま会場に来て、あなたから別れを告げられて、その何十分か後に妹との婚約を発表される。あなたはそれを『先に話しておいた』で済ませるつもりだったの?」
「だったらいつ言えばよかったんだよ」
亮介も語気を強めた。
「何週間も前から言ったら、お前だって仕事に支障が出ただろ。家族も会社も絡んでる話なんだ。今日の発表が決まってから、俺なりにどう伝えるべきか考えてたんだよ」
「その結果が十分前?」
「極端に言うなよ。俺はちゃんと時間を作って――」
「十分前だよ」
美緒は遮った。
「会場へ戻ったら、すぐ発表なんでしょう?」
亮介は答えない。
答えられないということは、その通りなのだろう。
莉奈が耐えきれなくなったように口を開いた。
「お姉ちゃん、本当にごめん。でも私たち、最初からこうするつもりだったわけじゃないの」
美緒は莉奈へ向き直る。
「じゃあ、どういうつもりだったの?」
「私も……こんなことになると思ってなかった。亮介さんとは最初、相談に乗ってもらっていただけで」
「何の相談?」
「仕事とか、家のこととか。お父さんがまた転職のことをうるさく言ってきた時に、亮介さんが話を聞いてくれて……それで何度か食事するようになったの」
「二人で?」
「最初は何人か一緒だったよ。でも、そのうち二人でも会うようになって……」
莉奈は言葉を選びながら話していた。
美緒はその姿を見ながら、妙に冷静になっていく自分を感じていた。
「いつから?」
「え?」
「二人で会うようになったのはいつから?」
莉奈の指が、ドレスの布を強くつまんだ。
「……半年前くらい」
半年前。
今度こそ、美緒は何も言えなかった。
半年前なら、思い当たることがいくつもあった。
亮介からの連絡が減ったこと。
休日の予定を聞いても「取引先との付き合いがある」と言われることが増えたこと。
外食へ行ってもスマートフォンを見る時間が長くなったこと。
美緒が作った料理を食べながら、何度も「最近の若い子って、こういう店好きなのかな」と聞かれたこともある。
あれは莉奈と行く店でも探していたのだろうか。
考えた瞬間、胃のあたりがひどく重くなった。
「半年……」
「お姉ちゃん、本当に違うの。最初は、奪おうとかそんなつもりはなくて」
「奪うって言葉、私はまだ使ってないよ」
美緒がそう言うと、莉奈の顔が強ばった。
「あ……ごめん」
「謝らなくていいから、ちゃんと話して」
莉奈は泣きそうな顔をした。
昔からそうだった。
叱られるとすぐに目に涙が浮かぶ。実際に泣くことも多かった。そのたびに父や継母が美緒へ言った。
『お姉ちゃんなんだから、そんなに責めなくてもいいでしょう』
美緒も本気で怒っているつもりはないのに、泣いている莉奈を見ると、自分が悪いような気がした。
今も同じだった。
ただ、今日はいつものように「もういいよ」と言えなかった。
「好きになったのは、いつ?」
莉奈はなかなか答えなかった。
代わりに亮介が言った。
「そこまで聞く必要あるか?」
「ある」
「もう別れるって話はしただろ。莉奈を追い詰めるなよ」
その言葉に、美緒の胸の奥で何かが軋んだ。
「私が追い詰めてる?」
「そういう意味じゃない。ただ、莉奈だって楽な気持ちでここにいるわけじゃないんだ」
「私は?」
亮介が口を閉じた。
「私も楽な気持ちでここにいるように見える?」
「美緒……」
「五年付き合った人に、妹を好きになったから別れてほしいって言われて、その妹が婚約指輪をつけて目の前にいる。私はまだ一度も二人を怒鳴ってないし、物を投げてもいない。聞いているだけだよ。それでも私が莉奈を追い詰めてることになるの?」
自分の声が少しずつ硬くなっていく。
亮介は不機嫌そうに髪をかき上げた。
「何を言っても悪者にする気だろ」
「悪者にしたいんじゃない。何が起きたのか知りたいだけ」
「だったら説明してるだろ」
「最初にあなたが言ったのは、私には華がないから結婚できないってことだった」
亮介の顔が歪んだ。
美緒は続ける。
「妹と半年前から会っていて、一週間前には指輪まで渡していた。そのことを言わずに、私が地味だから結婚できないって説明した。私が『そうなんだ、仕方ないね』って納得すれば、それで終わらせるつもりだった?」
「そういう言い方するなよ」
「どういう言い方ならいいの?」
しばらく誰も答えなかった。
部屋の外を誰かが通り過ぎる気配がした。パーティー会場へ急ぐスタッフなのか、カーペット越しの足音がすぐに遠ざかっていく。
莉奈が小さく息を吸った。
「私が悪いの」
美緒は妹を見る。
「亮介さんだけを責めないで。私も止められなかったから」
「止められなかった?」
「好きになったことを」
莉奈の目から、とうとう涙がこぼれた。
「お姉ちゃんが亮介さんと付き合ってるのは分かってた。でも……亮介さんと話してると、私のことをちゃんと見てくれる気がしたの。家では何をしても、お父さんたちは私を子供扱いするし、仕事だって長続きしないって決めつけられる。お姉ちゃんは昔から何でもできて、勉強も仕事もちゃんとしてて、私はいつも比べられて――」
「待って」
美緒は思わず止めた。
「私と比べられてた?」
「比べられてたよ」
「誰に?」
「お父さんにも、お母さんにも。表では私を褒めてくれても、何かあると『美緒に聞きなさい』『お姉ちゃんを見習いなさい』って言われる。お姉ちゃんは知らないだろうけど、私だってずっとしんどかった」
美緒は何も言えなかった。
知らなかった。
父と継母が莉奈を甘やかしているとしか思っていなかった。
美緒には「姉なんだから譲りなさい」と言い、莉奈には「姉を見習いなさい」と言っていたのだろうか。
だからといって、何かが許されるわけではない。
ただ、莉奈の中にも美緒の知らない積み重ねがあったことだけは理解できた。
「それと亮介は関係あるの?」
美緒が尋ねると、莉奈は唇を噛んだ。
「最初は、関係なかった」
「じゃあ途中から関係ができた?」
「……うん」
「私に言おうとは思わなかったの?」
「思ったよ。何度も」
「でも言わなかった」
「怖かったの!」
莉奈の声が突然大きくなった。
本人も驚いたらしく、すぐに口元を押さえた。
「ごめん。でも、お姉ちゃんに言ったら全部終わると思った。亮介さんにも、家族にも嫌われるかもしれないって思ったし……それに、お姉ちゃんはいつも何でも譲ってくれたから……」
そこで莉奈は言葉を止めた。
美緒も動けなかった。
「……何でも譲ってくれたから?」
莉奈は俯いた。
「違うの。今の言い方は違う」
「どう違うの?」
「お姉ちゃんだったら、最後には分かってくれるんじゃないかって……」
美緒は、その場で息が止まりそうになった。
亮介と同じだった。
お前なら分かってくれる。
お姉ちゃんだったら分かってくれる。
まるで自分だけが、いつも最後に譲る役目として決められているようだった。
「私が分かってくれると思ったから、半年黙ってたの?」
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあどういう意味?」
「美緒、もういいだろ」
亮介が割って入った。
「莉奈も十分謝ってる。これ以上ここで責めても何も変わらない」
「あなたはさっきから、私にばかり『もういいだろ』って言うね」
「だって話が進まないだろ」
「あなたにとっては、もう終わった話だから?」
「そうじゃない」
「じゃあ何?」
亮介は答えを探すように黙り込み、やがて吐き捨てるように言った。
「今さらどうしてほしいんだよ」
その言葉に、美緒はすべての力が抜けていくような気がした。
「どうしてほしいか……」
「ああ。俺が莉奈と別れて、お前と結婚すれば満足なのか? そうじゃないだろ。もう気持ちは戻らないんだ。だったら誰が悪いか責め続けたって、どうにもならない」
理屈としては、その通りなのかもしれない。
亮介の気持ちは変えられない。
莉奈との関係も、なかったことにはできない。
それでも、美緒が今欲しいのはそんな結論ではなかった。
「私は、謝ってほしかったのかもしれない」
口から出た言葉に、美緒自身が少し驚いた。
亮介が眉を寄せる。
「謝っただろ」
「そうじゃなくて」
美緒は首を横に振った。
「あなたたちが好きになったことだけなら、こんなに腹が立ってないと思う。人の気持ちは変わるし、私はそれを止められない。でも、半年黙ってたことも、今日まで私に結婚すると思わせたことも、発表の直前に別れを告げれば済むと思ったことも、それを『お前なら分かる』で片づけようとしたことも……全部、私なら我慢すると思ってたんでしょう?」
二人とも何も言わなかった。
それが何よりの答えだった。
美緒は鞄を持ち上げた。
「分かった」
「美緒?」
「もう会場には戻らない」
亮介がすぐに立ち上がった。
「待てよ。今日は関係者が大勢来てるんだぞ。俺たちの婚約発表があるのに、お前だけ帰ったら、余計な憶測を呼ぶだろ」
「私が出席したらしないの?」
「少なくとも、変に騒がれずに済む」
「どうして私が、あなたたちのためにそこまでしなきゃいけないの?」
亮介は言葉に詰まった。
美緒は続ける。
「私は元恋人としてにこにこ拍手すればいい? 『妹をよろしくお願いします』って言えば、みんな安心する?」
「そこまでしろなんて言ってない」
「でも、会場には戻れって言ったでしょう」
「社会人としての話だ」
「今は仕事じゃない」
初めて、はっきり言えた。
亮介の顔に苛立ちが浮かぶ。
「感情的になるなよ」
「感情的になるよ」
美緒は即座に答えた。
「なるに決まってるでしょう。五年付き合った人と妹に、半年間隠れて付き合われてたんだから。ここで冷静に笑えるほど、私は出来た人間じゃないよ」
亮介が口を開こうとした、その時だった。
扉の向こうから再びノックが聞こえた。
今度は返事を待たず、父の隆一が入ってきた。
「まだ話は終わっていないのか」
父は部屋の空気を一目で察したらしい。
美緒を見て、それから泣いている莉奈へ目を向けた。
「莉奈、顔を直してきなさい。もうすぐ発表だろう」
「お父さん……」
「こんなところで泣いていたら、写真に残るぞ」
父の言葉は、ひどく現実的だった。
美緒は父を見つめる。
「知ってたの?」
隆一の表情がわずかに止まった。
「何をだ」
「亮介と莉奈のこと」
父はすぐには答えなかった。
その一瞬で、美緒には分かってしまった。
「知ってたんだ」
「美緒、落ち着いて聞きなさい」
「いつから?」
「ここで話すことではない」
「いつから知ってたの?」
父は深く息を吐いた。
「一か月ほど前だ」
美緒は笑いそうになった。
半年前から二人は関係を続け、一か月前には父も知っていた。
自分だけが何も知らなかった。
「お母さんも?」
「知っている」
「そう」
「美緒」
隆一は美緒の態度に何か嫌なものを感じたのか、少し声を低くした。
「勘違いしないでほしいが、私たちも面白がって黙っていたわけではない。どう伝えるべきか考えていた。お前も大人なんだから、そのくらいは分かるだろう」
また同じだった。
分かるだろう。
美緒なら分かってくれる。
いつもそれだった。
「じゃあ、さっき会場で私に『妙なことを言うな』って言ったのは、このこと?」
父はわずかに眉を動かした。
「今日の主役はホテル側だ。家族のことで騒ぎを起こす場ではないと言いたかっただけだ」
「私が騒ぐと思った?」
「今の状態を見れば、心配するのは当然だろう」
「私、何か騒いだ?」
「そういう揚げ足を取るような言い方はやめなさい」
美緒は唇を閉じた。
亮介と父。
二人とも同じことを言う。
自分が言葉を返すと、それを「言葉尻を取る」「揚げ足を取る」と呼ぶ。
美緒は急に、ひどく疲れた。
「私は帰るね」
「待ちなさい」
「もう話すことないから」
「ある。莉奈の婚約発表が終わるまでは残りなさい」
「どうして?」
「姉だろう」
その一言が、最後だった。
美緒は父の顔をまっすぐ見た。
「姉だったら何?」
「妹の大事な日なんだ。お前が途中で帰れば、莉奈が姉から祝福されていないと余計な噂が立つ。今日だけは大人になりなさい」
「私の大事な日は?」
父が黙った。
「私は今日、大事な日だと思ってたよ」
「美緒」
「五年間付き合った人と婚約できる日だと思って、新しい服も買った。美容院にも行った。仕事も早めに引き継いで、失礼がないように準備してきた。私のその日は、もうどうでもいいの?」
「そうは言っていない」
「でも、莉奈の大事な日のためには残れって言うんでしょう?」
「状況が違うだろう」
「いつもそうだね」
声に出してから、美緒は自分でも驚いた。
父の顔が険しくなる。
「何の話だ」
「子供の頃からずっと。莉奈が泣けば、私が譲る。莉奈が失敗すれば、私が助ける。私が何か欲しいって言っても、『お姉ちゃんなんだから』って言われる。私も、それが普通だと思ってた」
「昔の話を持ち出すな」
「昔の話じゃないよ。今も同じだから言ってるの」
「美緒!」
父の声が初めて強くなった。
美緒は肩を揺らしたが、目を逸らさなかった。
怖くないわけではない。
昔から父に強い声で呼ばれると、反射的に謝りたくなる。
今も喉元まで「ごめんなさい」が出かかっていた。
けれど、飲み込んだ。
「私は帰る」
「勝手なことをするな」
「勝手なのはどっち?」
父の顔が固まった。
美緒はもう続けなかった。
これ以上言えば、自分でも何を口にするか分からない。
泣きたくもない。
怒鳴りたくもない。
ただ、一刻も早くここから離れたかった。
扉へ向かう途中、莉奈が後ろから声をかけた。
「お姉ちゃん」
美緒は立ち止まった。
「本当に、ごめん」
振り返ると、莉奈は泣いていた。
昔なら、それだけで許していたかもしれない。
泣かせてしまった自分の方を責めていただろう。
でも今は、そんなことはできなかった。
「ごめんね、莉奈」
「え……?」
「今は、許せない」
莉奈の目が大きく開いた。
「私も自分がこんなこと言うなんて思わなかった。でも、今ここで『いいよ』って言ったら、たぶん私は自分のことをもっと嫌いになる。だから、しばらく連絡しないで」
「お姉ちゃん……」
「結婚するなら、私の許可なんていらない。二人で決めたんでしょう?」
亮介が何か言おうとしたが、美緒はもう見なかった。
部屋を出る。
廊下は明るく、暖房がよく効いていた。
けれど、美緒の手は冷えきっていた。
エレベーターへ向かう途中、大宴会場の扉が開き、拍手の音が一気に廊下まで流れてきた。
司会者の明るい声が聞こえる。
「それでは続きまして、柊木ホテルズ専務取締役、柊木亮介様より皆様へご報告がございます――」
美緒は足を止めた。
もう始まる。
自分が婚約者になるはずだった発表が。
ほんの少しだけ、見届けようかと思った。
どんな顔で亮介が莉奈を紹介するのか。父はどんな顔で拍手するのか。
けれど、それを見て自分に何が残るのだろう。
美緒は再び歩き出した。
エレベーターの前まで来た時、背後から父の声がした。
「美緒、待ちなさい」
追ってきた隆一が、美緒の腕へ手を伸ばした。
「せめて発表が終わるまでは――」
「お父さん」
美緒は振り返り、その手が触れる前に一歩下がった。
「お願い。今日はもう、私に我慢させないで」
隆一は動きを止めた。
その顔には怒りよりも戸惑いが浮かんでいた。
美緒がこんなふうに頼むこと自体、父にとって想定外なのだろう。
「私は今まで、ちゃんと我慢したよ。だから今日は、もういいでしょう?」
エレベーターが到着し、扉が開いた。
美緒は中へ入った。
「美緒」
父が名前を呼ぶ。
けれど、美緒は戻らなかった。
閉まりかけた扉の向こうで、父は何かを言いたそうにしていた。
最後まで言葉は届かなかった。
エレベーターが下降を始める。
階数表示の数字が一つずつ減っていくのを眺めているうちに、美緒はようやく、自分がひどく震えていることに気づいた。
涙はまだ出なかった。
泣いたら終わる気がして、唇を強く結んだ。
一階へ着くと、フロント前にはいつものように多くの客がいた。
誰かが笑い、誰かが旅行鞄を引き、スタッフたちが丁寧に頭を下げている。
美緒が何年も働いてきた場所。
さっきまで自分の居場所だと思っていた場所。
そこが急に、知らないホテルのように見えた。
「水瀬さん?」
フロントにいた茜が美緒へ気づいた。
「どうしたんですか? もうパーティー終わったんですか?」
「ううん。ちょっと……先に帰るね」
「え?」
「ごめん。明日のシフトは普通に出るから」
「水瀬さん、顔色すごく悪いですよ。何かあったんですか?」
茜の心配そうな顔を見た瞬間、美緒は初めて泣きそうになった。
けれどここで説明したら、本当に崩れてしまう。
「大丈夫」
いつもの言葉が口から出た。
大丈夫。
何度それを言ってきただろう。
自分が大丈夫かどうかなど、今はまるで分からないのに。
美緒は茜へ小さく笑ってみせ、そのまま正面玄関へ向かった。
自動扉が開く。
外は雨だった。
朝は降っていなかったから、傘は持っていない。
ホテルの車寄せでは、黒塗りの車が次々と到着していた。ドアマンが傘を差し、華やかな服装の客たちを迎えている。
美緒は屋根の下で立ち止まった。
スマートフォンが何度も震えていた。
父。
継母。
亮介。
そして莉奈。
画面には未読通知が積み重なっていく。
どれも開く気になれなかった。
やがて、父から短いメッセージが届いた。
『今夜のことは家に帰ってから冷静に話そう。莉奈の大切な日でもある。感情的な行動だけはしないでほしい』
美緒はしばらく画面を見つめた。
そして初めて、返信しなかった。
スマートフォンを鞄へしまい、雨の向こうを見る。
タクシー乗り場には列ができていた。
電車で帰ればいい。
少しくらい濡れても構わない。
そう思い、美緒は雨の中へ一歩踏み出した。
その瞬間、背後から誰かに名前を呼ばれた。
「水瀬さん?」
落ち着いた男の声だった。
聞き覚えはある。
けれど、今の美緒にはすぐに誰なのか思い出せなかった。
振り返る。
ホテルのロビーから、一人の男性がこちらへ歩いてきていた。
黒いスーツを端正に着こなし、傘を持ったスタッフが追いつこうとするのを手で制している。
美緒は何度か接客したことがあった。
長期滞在中の客。
静かで、ほとんど無理な要求をせず、スタッフの名前までよく覚えている少し変わった男性。
神代蓮司。
その時の美緒は、まだ知らなかった。
これから自分の人生を大きく変える男が、すぐ目の前まで来ていることを。
第20話 初めて、自分の仕事に値段をつけました 条件面談の日程が決まったあと、美緒は人生で初めて「自分はいくらの給料をもらうべきなのか」を真剣に考えることになった。 これまで給与というものは、会社が決めるものだった。 昇給通知を受け取ればありがとうございますと言い、賞与額を見て少し喜んだり落ち込んだりする。それ以上のことを考えた経験はほとんどない。 まして、自分から希望額を口にするなど想像したこともなかった。 ところがグランド・ルミエール東京から届いた案内には、はっきり書いてある。『これまでのご経験、および想定する役割を踏まえ、ご希望の待遇をお聞かせください』 美緒は朝からノートパソコンの前で、その文章を何度も読み返していた。「……ご希望って言われても」 つい独り言が漏れる。 前職の年収を基準にすればいいのか。 同年代のホテルスタッフの相場を見るべきなのか。 今回提示されているのは、ゲストリレーション業務だけではなく運営改善プロジェクトの兼務だ。 なら責任は増える。 けれど、管理職経験はない。 英語は業務で使えるが、中国語は完璧ではない。 考えれば考えるほど、自分を高く言う理由と低く言う理由の両方が出てきた。「五十万くらい下げて言った方が……」「なぜです?」 突然背後から声がして、美緒は椅子の上で飛び上がりそうになった。「蓮司さん!」「はい」「いつ帰ってきたんですか?」「今です」「音しませんでしたよ」「しました」 またこの会話である。 蓮司はネクタイを緩めなが
第19話 「社長夫人だから採る気はありません」――その言葉に、私はほっとしました グランド・ルミエール東京の二次選考は、最初の面談から四日後に決まった。 現場責任者と総支配人を交えた実務面接。 そう聞いた時から、美緒は妙に落ち着かなかった。 一次面談は、自分が何をしてきたかを話す場だった。しかし今回は、実際にその経験が通用するのかを見られる。 書類に書いた語学力。 七年間のホテル勤務。 VIP対応。 クレーム処理。 現場改善。 どれも嘘ではない。 それでも、前の職場では長く働いているうちに「水瀬さんならできる」が先に立つようになっていた。初めて会う人間たちが、自分をどう評価するのかは分からない。 朝食のパンを半分ほど残したところで、向かいに座っていた蓮司が口を開いた。「食欲がない?」「あります」「では、なぜ止まっているんですか」「考え事してました」「今日の面接?」「はい」 蓮司はコーヒーを飲みながら、美緒の皿へ視線をやった。「無理に食べろとは言いません。ただ、面接の途中でお腹が鳴ると、それはそれで気になるのでは」「……食べます」「それがいいと思います」 美緒はパンを一口かじった。「蓮司さん、緊張しないんですか?」「何に?」「大事な商談とか、初めて会う相手とか」「しますよ」「見えません」「見せないようにしているので」 意外だった。「神代さんでも?」「僕を何だと思っているん
第18話 財閥CEOの妻ではなく、一人のホテルマンとして面接を受けました グランド・ルミエール東京との面談当日、美緒はクローゼットの前で十五分ほど悩んでいた。 転職活動の面接なら、以前使っていた紺色のスーツでいい。そう思って自宅から持ってきたのだが、鏡の前に立つと、急に色々なことが気になってくる。 堅すぎないだろうか。 古く見えないだろうか。 七年間同じホテルで働いてきたため、本格的な転職面接を受けるのは新卒以来だった。「まだ着替えていなかったんですね」 寝室の入口から声がして、美緒は振り返った。 出勤前の蓮司が立っている。「ノックしてください」「しました」「聞こえませんでした」「かなり集中していたようなので」「服で悩んでたんです」 蓮司はベッドの上に並べた二着を見た。 一つは紺色のパンツスーツ。 もう一つは先日買ったネイビーのワンピースにジャケットを合わせたものだ。「どちらでも似合うと思います」「その答え、一番役に立たないです」「難しいですね」「面接なんですよ。ホテルの」「分かっています」「だったら、採用する側としてどう思います?」 聞いてから、美緒は「あ」と声を漏らした。「やっぱり今のなし」「なぜ?」「蓮司さん、ホテル事業も持ってる会社のCEOでしょう。助言をもらったら、なんか不公平な気がする」 蓮司は少し考え、それから真面目な顔で答えた。「では、夫として言います」「はい」「美緒さんが落ち着ける方で行けばいい」「&h
第17話 夫の従妹は、私を「財産目当てでは?」と疑っていました」 美緒が次の仕事を探し始めて三日目の朝、神代家から新たな人物がやってきた。「初めまして。神代沙耶です」 リビングで名刺を差し出した女性は、蓮司より三歳年下の三十歳だという。 肩までの黒髪を隙なく整え、濃紺のパンツスーツを着こなし、化粧も装飾品も控えめだった。美人なのは間違いないのだが、笑顔になっても相手を観察する目だけは少しも緩まない。 名刺には、神代グローバルホールディングス法務統括室の肩書きが記されている。「こちらこそ初めまして。神代美緒です」 自分も名刺を出そうとして、美緒は手を止めた。「あ……すみません。今、名刺がなくて」「当然でしょう。退職されたばかりだと伺っています」「はい」「それに今日は仕事の面談ではありませんから、必要ありません」 言葉は丁寧だった。 けれど妙に硬い。 隣にいる蓮司を見ると、彼は何とも言えない顔をしていた。「沙耶」「何?」「最初からその調子なのか」「法的な話をしに来たのだから、遊びに来たような態度を取る方がおかしいでしょう」「美緒さんが緊張する」「その美緒さんは、あなたより落ち着いて見えるけれど」 沙耶の視線が戻ってくる。 美緒は思わず姿勢を正した。「緊張してます」「そうですか?」「かなり」「それなら普通ですね」「普通?」「神代家の財産に関する契約を初対面の親族と話すのに、まったく緊張しない人なら、その方が私は警戒します」 なるほど。
第16話 私がいなくなって初めて、元婚約者は気づきました 退職手続きのためにロイヤル・オルビス東京へ戻る日、美緒は思っていた以上に緊張していた。 たった数日前まで毎朝通っていた場所である。従業員用入口の位置も、休憩室の自動販売機の癖も、バックヤードで午前九時を過ぎるとコーヒーの香りが強くなることも、何もかも知っている。 それなのに今日は、建物が少し遠く見えた。「送ります」 朝食を終えたところで蓮司に言われ、美緒はすぐ首を横に振った。「今日は一人で行きます」「分かりました」 思ったよりあっさり引いたので、逆に拍子抜けする。「理由、聞かないんですか?」「聞いてほしそうですね」「そういう言い方します?」 蓮司はコーヒーカップを置いた。「聞きます。なぜ一人で?」「最後くらい、自分の足で行って、自分で終わらせたいからです」 退職の意思を告げた時も、自分で言った。 戻らないと決めた時も、自分で決めた。 なら、その最後まで自分でやりたかった。「それに、神代グローバルのCEOの車で乗りつけたら、みんな余計に気を遣うでしょう」「それはあるかもしれません」「でしょう?」「では送りません。ただし帰りは?」「自分で帰れます」「そうではなく、迎えに行ってもいいですか」 美緒は少し考えた。「……終わったら連絡します」「ありがとうございます」「まだ迎えに来ていいとは言ってません」「連絡をもらえるだけで十分です」 またそうやって、こちらが断りにくくなることを言う。
第15話 私が何度も警告していた問題が、全部残っていました 翌朝、美緒が目を覚ました時、蓮司の姿はもうなかった。 まだ六時半だった。 昨夜は神代征一郎との初対面を終えて帰宅したあと、二人で簡単な夕食を取り、柊木ホテルズの話を少しした。蓮司は「明日の朝、追加審査の会議がある」と言っていたものの、まさかこれほど早く出るとは思っていなかった。 枕元のスマートフォンには、一時間ほど前に届いたメッセージが残っていた。『起こすか迷いましたが、よく眠っていたので先に出ます。朝食は冷蔵庫にあります。無理に全部食べなくて構いません』 そこまで読んだところで、美緒は少し笑った。「無理に全部食べなくていいって……」 最初に出会った頃、自分が食事を取れていない蓮司を心配したことを、彼はまだ覚えているのだろう。 その下に、もう一文あった。『柊木ホテルズの件は、こちらで進めます。美緒さんが気にしていた資料について、確認できた事実だけ帰宅後に説明します』 美緒の指が止まる。 昨日、蓮司から聞いた。 現場が上げた改善要望のうち、経営会議まで届いていないものが多数ある。 しかも、その中には美緒自身が作った資料も含まれている可能性が高い。 考え始めれば、いくらでも悪い想像ができた。 亮介が止めていたのか。 途中の管理職が握り潰したのか。 あるいは、誰かが「重要ではない」と判断しただけなのか。 まだ分からない。 蓮司も、分からないことを断定しなかった。 だから美緒も、それ以上考えないようにした。 ベッドから出て、カーテンを開ける。 朝日が高層階の窓いっぱいに差し込んだ。 今日、美緒には仕事がない







